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師範コラムvol.1 文化と自由

丹足師範の三宅です。これからここで「師範コラム」を書いていくことにしました。

文化とはなんでしょうか。丹足は平成という時代に生まれ、確かな文化として後世に残していきたいと我々丹足普及協会は取り組んでいます。では文化とはどういうものか、そこを考え続けねばなりません。私は文化の一側面として「不自由」を思うのです。

 例えば日本が誇る伝統文化として茶道があります。茶道は、ただ普通に飲めばそれでいいはずの茶を、様々な決まり事をつけて不自由な形にしたものとも言えます。4畳とか3畳とか狭い空間にわざわざこもって飲む茶、求められる行儀作法。この不自由、であるのに立派な文化になっています。

 一方で、私が長らく属してきた整体という世界、これは未だ文化の境地には程遠いものです。徒手療法の歴史は浅くありません。従事する人口も決して少なくはありません。様々な技術も流派も存在します。しかし整体が文化になるという気配は全くないのです。これはなぜでなのでしょうか。

 おそらく整体は自由過ぎるのです。先生の数だけ施術法があると言ってもいいくらいに、施術はそれぞれの整体師の自由裁量によって行われています。ご存知の通り整体師になるには資格は必要ありません。ですから茶道のように人生通してお師匠さんから学びその道を究めようと言うような人は、整体の世界にはほとんどいないのです。自由度と言う意味において、茶道と整体は全く両極端な位置関係にあるといえます。

 実はここで一つ告白すると、私はかねてから丹足を一つの「文化」にしたいと願い、かつ「自由」を求めてきました。文化と自由は無理なく共存できると考えていたのです。なぜなら、私自身が自由に整体を追求してきて今に至るからです。自由にやって来たからこそ、私は「丹足法」をそして「ハラ揉み法」を作り上げることができた、だからこそ文化とは自由から生まれる物だとさえ信じてきたのです。

 しかしそれは間違いであったと次第に学んでいきました。私が丹足を作り上げたのは、私が自由であったからではなかったのです。また翻って教え子たちを見るに、「自分で思うように自由に踏みなさい」という教え方をしていた時、まず上手くいかなかったのです。自由はどこかで必ず行き詰まるのです。

 

 道場に於いて不自由の象徴として「型」と言うものがあります。この型についてはまたいつか詳しく書きますが、私が丹足法に型を定めたのは今年の春のことです。もちろんそれまでも型は私の中にありましたが、それを体系化し、明文化し、指導に活用するようになったのは、今春からです。ずっと避けてきた不自由を、思い切って型という形で丹足に導入したのです。ところがそれから我々の丹足法は予想を超えて進化しました。型という不自由の力を思い知る事になったのです。

 

 自由と言うものは、楽であります。厳密にいうと、ごく一部の人によっては際限もない苦を伴う喜びであり、大多数の人にとっては単なる楽になってしまいます。自分の考えを誰にも抑圧されないのですから。今のわれわれの社会は自由が標榜され、他者に自由を抑圧されることを断固として排除する社会になりつつあります。私は思うのです。行き過ぎた自由は人間の発想力を眠らせ、文化を衰退させるのではないかと。だからこそ現代に産まれる文化がほとんどないのではないか、そのようにも思うのです。

 型という不自由の中で努力する。工夫して考える。「なぜこの型なのか。そこにどういう意味が隠されているのか」と。茶人は作法に真摯に向き合う時、千利休と対峙するのかもしれません。「利休さん、どうしてこの作法をつくったのですか」と。不自由だからこそ、人は一生懸命に考えるのだと思います。そして一つ一つ自分の中に知恵を蓄えていく。本当の意味で賢さを培っていくのではないかと思います。

 

 丹足法は平成に生まれました。茶道も華道も柔道も全て先人たちが私たちに残してくれた大切な文化です。しかし私たちはただ文化を享受するだけでいいのでしょうか。今の時代に、今の時代だからこそ産みだせる文化もあるのではないでしょうか。自由を標榜する現代社会に真っ向から対峙し、不自由を愉しむ心が育っていけばきっと丹足は新しい文化となると思います。