· 

揉道6.祖母に教わる生き甲斐

本当にしたい仕事

一生の仕事を見つけるというのは本当に難しい。

 

大学卒業後に(株)コマツに就職したが、一生の仕事とは思ってなかった。24歳になっていても本当に自分がしたいことが見えておらず、まだまだ考える時間が必要だった。

 

そもそも一生の仕事とは何だろうか。土方をしても、家庭教師をしても、パチンコ屋で働いても、居酒屋で店長をしても、大学で英語を勉強しても、世界中を旅しても、一流企業で働いても、一生の仕事は見つからなかった。

 

寿司職人、蕎麦職人、花火職人、和太鼓奏者、杜氏、神主、経営コンサルタント、治療家etc... 自分が興味のあるいろいろな職業への転職をを検討しイメージしてみたが、どれも決め手に欠けているように感じて一歩を踏み出すことが出来なかった。

 

もちろんこのまま会社に骨を埋めようと努力もしたが、どうしても出来なかった。なりたい自分の姿を先輩社員の中に見つけられなかった。

 

じゃあ自分は何になりたいのか、何をしたいのか、と問われても何も答えられない。先輩たちに相談しても、無駄なこと考えずに働けよと言われるだけだった。これじゃあ学校と同じだ。このまま思考停止したほうがよっぽど楽だなあ、ああきっとこうやってみんな大人になっていくのだなあ。そんなことを思ったりもした。

祖母キミの不意の一言

こんな閉塞感を予期せぬタイミングで吹き飛ばしてくれたのが祖母キミだった。半年後に控えた結婚式を前にフィアンセを紹介するため祖母キミを訪れた時、畑でキミがふと言った。

 

「百姓がワシの生き甲斐や。」

 

生き甲斐なんて、まさか祖母の口から聞くとは思ってもみなかった。いつ帰省しても優しいおばあちゃん、美味しいものを食べさせてくれるおばあちゃん、帰り際に別れを惜しんでいつまでも手を握って離さないおばあちゃん。私にとってのキミはそういう人だった。

 

生き甲斐。

 

どうして唐突にそんな話をしたんだろう。結婚する孫に聞かせたかったのか、孫の妻に聞かせたかったのか、遺言のつもりで言ったのか。(実際に祖母はこの半年後に他界する。)

 

しかしさりげなく耳に入って来たキミの一言は、ビタッと私のハラの粘膜にへばりついた。それまでちゃんと考えたことのない言葉だった。知っているようで知らない言葉だった。関心を払ったことがない言葉だった。

 

 

生き甲斐とは何だろうか。

 

軽々に口にすることさえためらわれる、生き甲斐。会社員時代の私にはなく、畑で人生を重ねてきた祖母キミには明確にあったもの、生き甲斐。

祖母キミの人生

キミは畑と共に生きてきた。嫁に先立たれた2人の子連れの祖父のもとに嫁ぎ、3人の子を産んだ。5人の子供を育てながら畑に生きてきた。祖父は商いをしていて家に帰らず、女手一つで畑を守ってきた。

 

力仕事は近所の男衆に頼まねばならず、色々と苦労をした。祖父の商いも波瀾万丈だったという。そんな中で畑と家庭を守ってきた。決して自分で選んだ人生ではない。地縁のしがらみの中での一所懸命な人生だった。

 

そんなキミが最後に「百姓がワシの生き甲斐や」と聞かせてくれた。

 

会社で生き甲斐という言葉は一度も聞かなかった。今まで出会った大人からも聞かなかった。魂のこもった「生き甲斐」を伝えてくれたのはキミが初めてだった。

決意~生き甲斐を求めて

このまま会社員をしていても私の人生に生き甲斐を見つけることはできないと感じた。半年後、死の床についていたキミに別れを告げた帰り道、妻に「整体をやる」と告げた。キミに背中を押されたんだと今でも感謝している。

 

考えても考えても生き甲斐がわからない。考えるだけでは永遠に行き着かない。そもそも生き甲斐は考えて得られるものではない。行動する中で探し求めるしかない。一生かけても見つかる保証はない。「コマツを辞めるなんてもったいない」同僚にも先輩にも親族にも友人にも、皆から一斉に大反対された。それでも私は生き甲斐を求めて、整体の道を歩もうと決意した。それより他に道はなかったのだ。

 

 

丹足創始者

三宅弘晃

 

 

→次の記事<揉道7 まさかの開業>

←前の記事<揉道5 バブル経済と個性>