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揉道10.センスを養う

センスは才能じゃない

「あの人はセンスがあるね」というフレーズを解釈すれば、それは「あの人は才能があるね」という意味になるのではないだろうか。「私はセンスがないから」と言えば、「私はそういう才能がないから頑張っても無理」というメッセージになるようだ。でも私はそれは違うと思っている。

 

才能とは天から与えられたもの。ある種先天的なものであって努力が及ばないもの。確かにそうかもしれない。しかし才能を意味する言葉は違う言葉がある。例えばタレントという英語がしっくりくる。タレント=才能。しかしセンス=才能ではない。

 

私が修行時代にもっぱら取り組んだのは、「センスを養う」ということだった。

センスを養う

開業後まもなく、私は「ゴスペル教室」と「インド舞踊教室」を始めた。「なぜ整体院がこんな文化教室をはじめるんだ。」と言われたこともあったが、私には二つの狙いがあった。一つは患者さん達の自立を促すこと。ただ整体を受けるだけではなく、自己努力で体を整える方法を学べる機会を提供したいと考えた。そしてもう一つは私自身のセンスを養うことだった。

 

桜井先生から学んだ丹力には「内臓マニュピレーション」「足圧」という実技に加えて、「ハート呼吸法」「バーズ姿勢法」という実践理論があった。丹力への理解を深めたいと考えた私は、ゴスペルを通して呼吸法を、インド舞踊を通して姿勢法を自分なりに研究しようと考えた。

 

実際にゴスペルは非常に呼吸法の研究に役立ってくれた。約10年、真剣に発声練習をしながら研究に打ち込む中で、どうやったらより楽に大きく息を出し入れできるか、肋骨運動を向上させることが出来るか、そして内臓を引き上げることができるか、ということをメソッドとして確立することが出来た。

 

思わぬ副産物として声はとても響きある良い声になって、当時普通に話していると「歌手ですか?」とよく聞かれるようになった。しかし残念ながら私は音痴だった。

舞踊に学ぶ

インド舞踊の方は、雇ったインストラクターの先生とケンカして教室は無くなったが、以後もできるだけ色々なジャンルのダンスや伝統芸能を見に行って姿勢と動きの研究をした。

 

バリ舞踊、フラメンコ、フラダンス、ジャスダンス、日本舞踊、ベリーダンス、ヒップホップ、社交ダンス、エアロビクス、よさこい、古武術、能、などなど。。。機会があればできるだけ見に行った。時に体験もしたけれども、舞踊の場合は主に観察研究をした。

 

舞踊を見る時、徐々にハラと軸をみるようになった。どんなジャンルであっても、熟練者は必ずハラから動きが発し、ハラに動きが終息することが段々と見えるようになってきた。5体の動きの拠り所となるのが軸であり、ハラから生まれたエネルギーは軸を経て5体に放出され、また軸を経てハラに収まる。そんなことが段々と見えるようになってきた。

 

ここまで書けばおわかりだろう。この研究が今の丹足に繋がってきている。

 

といっても書くのは簡単だが、やるのは難しい。それ以前にこのメカニズムを感じ取るのがまず難しい。私が見てきたダンサーたちもほとんどがそこで行き詰っていて、トップダンサーとの差を埋められていなかった。なぜ埋められないのか、それさえもが見えていないように見えた。ハラと軸が肝心なのだ。でもそれがなかなか感じられない。

 

センスとはなにか

始めに書いた通り、センスは才能ではない。先天的で選ばれし人間にしか与えられない才能を意味するものではない。センスは努力次第で手に入れることができるものだと私は思う。

 

しかしだからと言って、誰にでも努力で必ず手に入れられるものだと断言するのも難しい。またここから上がセンスだという風に線を引けるものではない。だからセンスの定義はとても難しい。

 

一つ確実に言えるのは、頭でなんでも理解しようとする人ほどセンスは身につかない。目で見たものを、目に一番近い脳で処理しようとすれば、センスは働かない。目で見たもの、鼻で嗅いだもの、耳で聞いたもの、それらを脳をスルーさせて、そのまま心臓をスルーさせて、ハラで感じ取ろうとする真っ白、いや透明な気持ちがないとセンスは働くことができない。反対に要領や効率ばかり求める人は頭ばかりでかくなって、ハラのセンスは発動しない。無欲に、粘り強く、丁寧にハラに問いかけ続ける。これは本物か?と。

 

センスとは感覚なのだ。ハラに宿る感覚なのだ。

 

私は何年もかけて、「人からなんであんなことやってるんや?」と言われても意に介さず、セミナーにもいかず、歌や舞踊への挑戦を通してセンスを養う方法を体得してきた。私にはタレントはないかもしれない。しかしセンスには少々自信を持っている。

 

 

 

 

丹足創始者

三宅弘晃