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師範コラムvol.8 道場と教室

 何事かを学ぶ場所には、学校、セミナー、通信講座、塾などがありますが、その中に道場というものもあります。みんなが知っているものでは剣道道場などがありますが、改めて実際に道場とはどういう所でしょうか。何をするところでなのしょうか。何が学校やセミナーなどと違うのでしょうか。「なんとなく古めかしいところ」「上下関係など礼儀に厳しいところ」「怖い師範がいるところ」という漠然としたイメージを抱いている人も多いのではと思いますが、しかしその実態は案外知られていないようにも思います。そこで今日は、学校やセミナーなどの教室と道場の違いについて、少し私の思うところを書いてみます。

 道場と教室は何が違うのか。それは例えばこういう一言で表現できます。「答えを得ることを求めるのが教室であり、答えが無いものを求めるのが道場である。」 

 我々の千照館の稽古で道場生の皆さんからよく出てくる言葉に、「内ももを使うという感覚がわからない」「おなかで踏むってどういうこと?」こういう言葉が毎回飛び出てきます。またそれに対して「私も昔は全然わからなかったけれども、毎日四股を踏むようになって、最近少しだけわかりかけてきた気がする。」という言葉が応えることもあります。「少しだけわかりかけてきた気がする」とはなんと頼りなくも謙虚な自己観察でしょうか。毎日四股踏みを100回、それを1年続けてようやく「最近少しだけわかりかけてきた気がする」のであり、場合によっては「5年やっているけれども全然わからない」ことだってある。これが道場の学びの風景であり、教室との根本的な違いです。

 この道場風景を教える側に立って見ると、より分かりよいかもしれません。これは私の流儀ですが、私が教室で教えるときは「最期は答えがわかるように」教えます。答えがわからないと生徒達は面白くないのです。一方、道場で教える時には「最期まで答えがわからないように」教えます。(現実的にはまだ千照館は道場としては生まれたてほやほやの段階なので「答えがわかるように」教えていることも多々あります。)しかし道場ではありませんが、教え子の筆頭である弟子たちには私はほとんど教えません。時折何かを指摘するときも、「それは違う」ということ以上になるべく踏み込まないように心掛けています。道場においては答えがわからないことに自分自身で挑む面白さを先生が奪ってはならないからです。これが教室と道場についての、教える立場から見た違いです。 

 道場と教室と、どちらが上か下かなどという議論は意味がありません。教室といいながら実際は道場的なところもあるでしょうし、その逆もあると思います。本質を際限なく追求するなら道場的であるべきだとは思いますが、それは学びの目的による問題だと思います。ただ一つだけ言いたいのは、教育の世界から道場という選択肢が失われることは、断固として避けなければならないということです。いくら古めかしくとも、物事の本質を極めるのは道場的でなくては到底達成できないのですから。これは揉道の世界の最深部を掘り続けている私の経験から断言できます。

 我々の丹足普及協会は、千照館という「丹足道場」を持っています。私はいつも言うのですが、本当の丹足探求は道場が根幹です。道場での学びが原点なのです。今後初心者向けの「丹足教室」もだんだんと充実させていく計画ですが、その際に皆さんが決して忘れてはならないことは、教室の丹足と道場の丹足は同じではないということです。おなかを使う感覚、おなかから内ももを使っていく感覚、これを教室の中で見つけるのはまず不可能です。毎日四股を100回踏みながら、毎月稽古に参加し続け、2年、3年経ったときにようやく「もしかしてこういうことかな?」という類の学びであり、それとても本当の意味では丹足の入り口に立った程度のものなのです。そんなマドロッコシイものは嫌だ!という人は教室向きでありましょうし、それこそが面白いと思う人は道場向きと言えるのだと思います。

 道場と教室と、その違いが少し明確になれば幸いです。その上で、自分の取り組み方もまた改めて考えてはどうでしょうか。協会としては千照館という道場と、そこに付随する教室と、どちらも充実を図りつつ皆さんが思い思いに丹足に親しめるように活動を構築していきたいと思います。