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師範コラムvol.9 型と手順

手順を教える教室

前回のコラムでは道場と教室の違いについて書きましたが、今回はそれぞれの指導内容の違いについて書こうと思います。道場で教える内容と教室で教える内容、共に丹足を教えることには違いがありませんが、指導形式が随分違うのです。それは前者では「型」を元に指導し、後者では「手順」を指導していくということです。この点について少し説明していきましょう。

 

これは教室体験会用に作成した『丹足虎の巻』つまり入門手順書です。難しいことは何も書いていません。ここを踏むときはどちらの足で踏むのか、そういう最低限の情報だけ載せてあります。この『丹足虎の巻』の使用方法は、体験会に一度だけ参加した人がこの虎の巻を持って帰り、家の壁に貼ってみながら見よう見まねでいいから丹足にチャレンジする、そんな想定で作っています。

 

もちろん本教室に入った人には、より詳細な情報量の多い教材をお渡しすることになります。教室でトレーナーから受けた教えを、なるべく正確に家で再現できるよう、また最終的には教材を見なくても間違いない手順で踏めるように導いていくことを想定して作っています。しかしこれもあくまでも「手順書」なのです。

 

型を教える道場

ではもう一方の道場は何を教えるのでしょうか。それはこのコラムでも再三書いている「型」になります。「型」と「手順」と聞いてもどこが違うのか、わかるようなわからないような感じがするかもしれませんね。しかし両者には大きな違いがあります。

 

「手順」とは何か。それは文字通り一手一手次に何をしていけば間違いなく形になるという説明であると言えます。丹足の場合はもちろん一手一手ではなく一足一足ですが、この部位はこういう順番で踏むんですよ、とひとつひとつ丁寧に説明が行き届くことで手順として成り立ちます。つまり手順とは説明なのですね。

 

では「型」は説明とは違うのか。じゃあ何なのか?という話になります。実は「型」は説明ではないというのが私の考えです。例えば手順というものがうまくゴールに辿り着く道筋を説明するものであるならば、「型」はゴールそのものだと考えるべきです。ゴールとはつまり「そこ」であり「それ」であって、説明など介在する余地のないものです。説明などなくとも、踏み手、受け手、観察者、その場にいる全員が「それだ」と瞬時に共感できるもの、それこそが「型」というものであるというのが私の考えです。

 

余談にはなりますが、マイケルジャクソンの最後の仕事をまとめたドキュメンタリーのタイトルが「This is it」と言うものであることは皆さんご存知かと思いますが、私にはそこに同じニュアンスを感じています。

 

アレンジを許容する「手順」

手順はゴールまで行きつく道筋を説明したもの、と上に書きました。ここで考えたいのは、説明とは危ういものであるということです。いくら上手な説明を言葉を尽くして積み重ねても、完全なる理解に行き着くことはまずありません。少し難しい話になりますが、説明においては、説明する時点で説明者の独自の解釈や表現が入り、習い手の独自の解釈や理解も混ざり、本質把握の純度が落ちていくのは避けられないのです。

 

よって手順を示す指導においては、教える内容がそのまますべて伝わることはないという前提に立たねばなりません。教える側から教わる側に教えが伝わるときに、教えはある程度変質した形で伝わるのです。いわばアレンジされたオリジナルのものになってしまうのです。それは避けられないし、仕方がないのですね。

 

アレンジを認めない「型」

こういう理由で「誰かにアレンジされたものは嫌だ、正真正銘の本物が習いたい。」という人にとっては、説明が詳細であればあるほど皮肉なことに警戒すべきものになります。なるほど手順を習えば習得は早くなるでしょうが、本質には一向に近づかないばかりか、却って遠ざかることになる可能性も高いのですから。では手順に左右されずまっすぐに本質に向かうにはどうすればいいのか。そこに登場するのが「型」なのです。「型」とはゴールそのもの、間違いようがない。型は説明してはなりません。説明しては解釈というブレが入って完成が崩れます。ですから型には説明はないのです。「それ」としか言いようがない、それが型になります。

 

『This is it』の中で面白いシーンがありました。マイケルに「君がこの曲にどんなイメージをもっているか説明してくれ。例えば○○なイメージとか。そうでないと皆わからない。」と説明を求めるバンドマスターに対して「面白いこと言うね。」と冷ややかに言い放つシーンです。バンドマスターは手順を求めた。でもマイケルは曲の本質=型をつかめよ、と言いたかったんだと思います。マイケルは、表面の手順だけでわかった気になってチープなアレンジをされるのが許せなかったんだと思います。その気持ちは私にはよくわかる気がするのです。

 

 

「手順による普及」と「型による求道」

さて我々の活動は「丹足普及」と「丹足求道」の両輪によって進められています。丹足は誰にでも取り組める気安さがあります。その後押しをするために教室があり、手順書があります。なるべく安全に気軽に丹足に親しんでほしいという丹足普及においては「手順」を最大限に活用しない手はありませんから。

 

しかし一方の「丹足求道」においては、手順はむしろ邪魔者にさえなります。この頭の切り替えに道場生の皆さんは注意する必要があります。説明を聞いて頭で理解した丹足は、丹足の本質にはつながりません。丹足の本質につながる唯一の道は、道場における「型」稽古の中で、本質を知る指導者と共に、「それ」を掴み取っていくしかないのです。

 

そういう意味で稽古は一瞬一瞬が勝負です。いつ目の前を通り過ぎるかわからない刹那の「それ」を型稽古の中で掴み取れるかどうか。どれだけ「それ」を体に刻みこめるかどうか。道場はそういう型稽古ができる唯一絶対の場なのです。

 

 

 

 

平成30年9月30日

千照館師範  三宅弘晃