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揉道1 屠殺場のウルトラコース

ふるさと京都亀岡

私の古里、京都府亀岡市。

 

3歳から19歳まで私はこの田舎で暮らした。

 

冬になると霧が濃密にその内部を満たす亀岡盆地。真ん中を流れる保津川の夏は川舟「保津川くだり」とトロッコ列車に観光客が集まる。山に入ると湯の花温泉、盆地の中は住宅と田畑で満たされている。京都市内まで約30分という典型的なベッドタウン型の田舎である。

 

その亀岡を30年ぶりに歩いた。

 

 

幼稚園時代からの毎朝マラソン

写真の真ん中に映るのは屠殺場。あまり人が近づかない場所である。

 

 

この辺は、幼稚園の時から小学校卒業まで、毎朝父親と一緒に走らされた思い出の場所だ。一緒に走ったと言いたいが、気分的には走らされたとしか言いようがない。

 

朝はいつも父親が「いくぞー」で目が覚める。すでに父親は5~10kmほどひとっ走りして体から湯気がでている。その後さらに私と一緒に走るのだ。AコースとかBコースとか3~10kmの幅で父が設定したいくつかのコースがあり、父がどのコースを走るかを毎朝決める。反論など一切許されない。「お腹が痛い」と訴えたら「走ったら治る!」と叱られる。「眠い」など言えるはずもなかった。

 

雨や雪でも走りに出たが、さすがに台風や豪雨の日は休みになった。今気づいたが、私が雨好きなのはここから来ているのかもしれない。

 

走るだけではなく、毎回タイムを計られた。ゴール地点はもちろんのこと、途中の500m地点、1km地点、2km地点ごとに計時ポイントがあり(もちろんコース設定も計時地点も父が独自に設定したもの)、父がストップウォッチを見て「昨日より2秒遅い!」などと鬼の形相で叱られる。余計に心臓があがる気分だった。

 

ゴール地点で遅い場合には「罰走」。追加で300mほど走らされる。もちろんタイム計測付きであり、結果によってはさらなる「罰走」つきである。念のためもう一度言うが、幼稚園児の頃の話である。

 

何のためにこんなトレーニングをしたのか。当時はもちろん、大人になってからもその理由は分からなかったが、それが幼少期の私の朝だった。朝は大嫌いだった。恐怖でさえあった。

屠殺場のウルトラコース

屠殺場の近くを通る「ウルトラコース」が一番の恐怖だった。「今日はウルトラコースにする」と言われた時は、滅多に逆えない父に出来うる限りの抵抗をした。結局は無駄な抵抗におわるのだが、それでもどうしても嫌だった。距離が長いのも嫌だったが、もっと違う理由があった。

 

なぜだかわからないが、当時その屠殺場の周りには数匹の野犬がいた。屠殺場が番犬がわりに放し飼いにしているのか、牛骨のおこぼれを狙っている本当の野犬なのか、とにかく首輪のない野犬が数匹周りをウロウロして近づく人間を囲んで吠え掛かった。だから人も滅多に近づかない、そんな場所だった。

 

そこをわざわざ走り抜けるのが「ウルトラコース」だ。屠殺場の手前で石をいくつか拾って両手に握れるだけ握って、その野犬ゾーンに飛び込んでいく。

 

「いいか、犬が迫ってきたら石を投げるふりをしろ。そしたら犬が怖がって飛び掛かってこないから。」

 

「もしそれでも飛び掛かってきそうになったら?」

 

「その時は仕方がないから本当になげろ。」

 

「うん。」

 

「でも変に石をぶつけると本当に怒って襲ってくるかもしれないから、なるべく当てるな。」

 

今から考えても、どうしてマラソンの練習にそういうコースがわざわざ組み込まれているのかがわからない。最近は野犬はほとんど見なくなったが昔はたまにいた。大人でも野犬の群れは怖いが、目線の低い子供にとっては顔の高さがほぼ一緒、正直生きた心地がしなかった。

 

それが屠殺場近くの「ウルトラコース」であった。

幸せな?骨折

父とのマラソンは思い出が沢山ある。

 

地区のちびっこマラソンではいつもメダルや賞状をもらった。でも、どうしても勝てない大倉君と言う少年がいて、いつも彼が1番で私が2番だった。父はいつも悔しそうだった。

 

小学5年生の時に左足を骨折した。友達とケンカをして私のすねの骨が折れてしまった。病院でギブスに固められて痛い痛いと泣きながら帰宅したら父がいて、「情けない。やりかえしてこい!」と叱られて痛みが吹っとんだ。でもギブスが外れるまではさすがに朝のマラソンも免除されて、とても幸せな日々だった。

 

 

ブルマで疾走

幼稚園の年長組の時に、年齢を偽って(正確に言うと父に偽らさせられて)小学生の部のマラソン大会に出たことがある。京都御所の周りを走った。

 

走っていると沿道の応援の子供達に散々笑われたことを、今でもはっきりと覚えている。指をさして笑う子供もいた。なぜそんなに自分が笑われているのかが最初は分からなかったが、途中で分かった。

 

「男子なのにブルマで走ってる!」

 

そう、周りの小学生の男の子たちはみな体操着のズボン。幼稚園児の私だけがブルマだったのだ。事実を知ってからは顔を真っ赤にしてゴールまで駆け抜けた。

 

 

思い出語りのようだが、父はまだ生きてくれている。いまだに毎朝ジョギングをしている。

 

周りの人達にはいろいろ言われることもあった父の教育だが、あの屠殺場のウルトラコースがなかったら今の自分はなかっただろうと、それはなんとなく自覚できるようになった。今ようやくであるが。

 

 

近頃いろいろな出来事があり、ふと自分の原点に返ってみようと思って古里に帰ってみた。

 

まさか屠殺場のウルトラコースに行き着くとは思わなかった。

 

 

つづく。

 

 

 

 

丹足創始者 三宅弘晃