· 

揉道11.私の整体観

整体するのはしんどい?

どういういきさつで「足圧」が「丹足」へと生まれ変わったのだろうと、今考えている。

 

私が桜井寛先生から習得したのは正真正銘の正統なる「足圧」だったのに、それがいつのまにか「丹足」に進化した。

 

断っておきたいのは、私は一度だって「足圧を改造したい」と思ったことはない。新日本延命医学療法の技術の粋がこめられた足圧法を私は大事にしてきたし、大事に思うからこそわごいちの施術でも一貫して足圧、今は名を変えて丹足として活用し続けている。

 

そうして大事に大事にする中で、いつの間にか、その大事なものが新たな価値を秘めたものに生まれ変わっていた、そういう感じがするのだ。

 

考える中で「きっかけ」らしいものに思い至った。ここから芽生えたのかとおもうタイミングがあった。それはあまりにも意外なタイミングで自分で少し驚いた。それはまさに、足圧に出会ってすぐのタイミングだったのだ。

「かたいな。かたいな。」

桜井先生の元で修行をしている時、毎回桜井先生は私の足を足圧された。「こうやるんだ」と実際に先生の手本を我が身に受けて、自分の体でその作用を理解するためだった。

 

なにせ二人きりの修行である。受けて感じて、踏んで指摘されての繰り返しである。何度も何度も桜井先生の足圧を受けた。

 

当時の私は今より数キロも太っていて、むくみもきつく、筋肉も硬かった。だからさしもの桜井先生もずいぶん苦戦されて、息を切らしながら「かたいな。かたいな。」と言いながらほぐしてくださったものだ。

 

それでも足圧でほぐれた感覚を私に感じさせようと一生懸命ほぐされた。あるいは治療家の本能として、目の前の硬い足に必死になったのかもしれない。とにかく本気で必死でほぐされた。

 

「申し訳ない」「ありがたい」「頑張って覚えよう」と私が思ったのは言うまでもない。しかし今でもこれははっきりと思い出せるのだが、一抹の疑問が芽生えたのである。

 

「ほぐすって、そんなにしんどい思いをしなくちゃあかんのやろか?」

 

ほぐしてもらいながらそんなことを思うのは誠に不遜な気がするが、その当時の私の疑問はどちらかというと、素朴な幼児がもつような無垢な疑問であったように思い出される。

 

 

人をほぐすという行為は、しんどいことなのだろうか。

整体は奉仕なのか

確かにほぐし難い体というものはある。ほぐし難い体をほぐすは、そうでない体よりも大変なことが多い。しかしだからと言って、ほぐし難いからと言って、しんどい思いをしてほぐさねばならないものであろうか。

 

整体を奉仕と捉えるか、という見方もできると思う。

 

整体が奉仕であるならば、自分のことを多少なりとも犠牲にして相手に尽くすことが当然なのかもしれない。相手が楽になりさえすれば自分がしんどくなったり、体を痛めたりしても仕方がない。そういう仕事なのだ。そういう捉え方もあるかもしれない。

 

しかし私はそういう考え方には与していない。汗をかき、息を切らしてほぐすことで、少なくとも相手には「これだけ一生懸命尽くしましたよ」というPRにはなる。それで満足する人もいるかもしれない。しかしその汗と、整体の意義が比例するとは思えないのだ。

 

私個人的には、「硬いですねえ。鉄板が入っているみたいですよ。」と言いながらグイグイ押す整体師は好みではない。「人をほぐしてたら自分の体がぼろぼろですわ」という整体師も同様である。そこに共感する余地を見出すのは甚だ困難である。

 

整体は奉仕ではない。奉仕にしてはいけないと私は思う。しかし奉仕ではないけれども、しっかりとほぐしてあげることは大事である。奉仕でないからと言って手を抜くのは違う。しっかりとほぐす。しかししんどい思いをしてほぐすのは違う。

 

なんだかややこしい話かもしれない。しかしそこを考えることはとても大事なことなのだ。

 

整体は奉仕ではない。

 

自分を犠牲にして相手を癒すことに美学を求めた先に、希望も喜びも見えてはこない。ほぐしていて「しんどいな」と思ったら、それは間違った方向に行っていると考えるべきだ。

 

いつしかそういう風に考えるようになっていった。

自分が強く美しくなる整体を求める

私は整体修行時代に「整体ってしんどいこと?」という無垢な疑問をもったようだ。この疑問はその後ずっと私の整体の醸成に重要な役割を果たしているように思う。もちろん丹足の発生にも間違いなく大きな意味を持っている。

 

とにかく私は整体を奉仕とは考えなかった。一人を救うために、一人が傷んでいくのはおかしいと思う。整体をやればやるほどくたびれていくのではなく、やればやるほど自分も強く美しくなっていくような整体を作っていきたいと段々思うようになった。

 

その方策をなんとか見つけ出したいなと、ほぼ深層心理の世界で、つまり頭ではなくハラの中で、おそらくごくごく初期の段階で私は考え始めたのだと思う。それが足圧が丹足に生まれ変わるトリガーになったのではないか、そんな風に思いだされる。

 

さて次回はいよいよ丹足の誕生です。

 

 

 

丹足創始者

三宅弘晃

 

 

 →次の記事<揉道12 丹足誕生の秘密>

←前の記事<揉道10 センスを養う>