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揉道15.徒弟制度の厳しさ

今どき弟子?

 

私が人生で初めて弟子をとったのは2007年のこと。元美容師の池田が26歳で弟子に来た。

 

「今どき徒弟制度?」と驚かれることはよくある。「どうしてスタッフじゃなくて弟子なの?」と尋ねられることもしばしばである。今日はそのあたりを書いてみようと思う。

 

人を雇う

 

2002年に心斎橋たんりきを開業して、まず着手したのはスタッフを雇うことだった。というのも「経営が安定してからスタッフを雇うのではなく、まずスタッフを雇うのです。」という例の宝石商社長の教えを受け、その意味もわからないまま実践したのだった。

 

1人目のスタッフはうまく行かなかった。整体専門学校の先生に卒業生を紹介してもらったのだが、年下で後輩の(しかも中退の)私に雇われるのが嫌だったんだと思う。何にでも反対するのでやめてもらった。人生で初めて人をクビにした。いきなりよい勉強をさせてもらった。

 

その後計4人のスタッフにパート施術スタッフとして働いてもらった。1人はすぐやめたが、あとの3人はよく働いてくれ、激動の院を支えてもらった。

 

パート施術スタッフの限界

 

パートさん達は、とある整体学校を卒業し、アロママッサージ店で働いている人たちだった。性格も良くまじめで当院のお客さんとも仲良くやってくれた。毎週1回か2回、マッサージ店が休みの時に私の所で働く契約だった。

 

それでも私は次第にこのやり方に限界を感じるようになった。

 

パートはあくまでもパートなのだ。いくら優秀であっても片手間では技術が深まらない。これでは本人も心底からは楽しくないし、院も成熟しないと思った。

 

当時の院の状況は、マスコミ取材なども殺到しシフトは常にパンク状態だった。このままハラ揉みを私一人で行っていくことは既に無理なことがはっきりしていた。地に足をつけた人材の育成が急務だった。

 

ではフルタイムの社員であればいいのか。多分それも違うだろうと私は思った。一般のマッサージ店ならいざ知らず、ここはハラ揉みをやる院なのだ。一般的な雇用関係ではこの厳しい修行に耐えられないと考えた。

 

弟子が要る。ハラ揉み師を育てるには、部分ではなく互いの人生を丸ごとかけて挑む徒弟しか無理だ。そういう気持ちが高まっていった。

 

初めての弟子取り

 

そんな私の気持ちを話しているうちに、妻が「良い子がいるわよ。」と言ってきた。妻のライブステージのヘアセットをしてくれた池田真由美である。

 

妻の紹介で3人で食事をし、私もこの子が望むならいいかと思った。本来ならば弟子取りは本人から望んでやってくるのが理想であるが、大事な1人目という事もあり、こちらから話を持ち掛けたのである。妻と二人、池田の家に赴いて弟子にならないか話をした。やっぱり人生をかけるのだから、誠意は尽くしたいと思った。

 

同居しているご両親にも挨拶をした。植木職人のお父さんは玄関先で近所の友達と犬を撫でながらビールを飲んでおられた。人懐っこい方で、池田が弟子入りした後は毎年家に招かれ、趣味の木彫りや剪定の話を聴かせてくださった。私は本当にかわいがってもらった想い出しかないが、家で愚痴る娘には「おまえが間違っているから叱られるんやで」と諭し支えてくださったそうだ。

 

2015年12月28日、仁勝さんは亡くなられた。人への愛情が湧き出しているような方だった。

 

 

わごいちに飾られる仁勝お父さんの木彫り作品
わごいちに飾られる仁勝お父さんの木彫り作品

手探りの徒弟制度

 

池田が弟子にやってきたのはいいが、さて徒弟制度とはどんなものか、私にはさっぱり体験したことがなく、もちろん池田も初めてのことで、全てが模索から始まった。

 

今この世の中に、徒弟制度で技術を伝える人たちが果たしてどれだけいるだろうか。伝統芸能などの特殊な世界を除いてはほとんどないのではないだろうか。大工や料理人のような職人世界でさえ、学ぶのは専門学校、働くのは会社(もしくは店)でのサラリー制度がほとんどであろう。

 

いわばトキやコウノトリのように絶滅状態まで追い詰められているのが徒弟制度、といえば言いすぎであろうか。

 

わごいち(2007年に「心斎橋たんりき」から「整体院わごいち」に屋号変更)は、そんな時代にわざわざホコリをかぶって朽ち果てそうな徒弟制度を持ち出してきたのだ。2007年に池田、2012年に井上が弟子となった。

 

日常業務を勤めながらまずは丹足修行、そして数年後にハラ揉み修行を開始するのがわごいちのスタイル。技術的な指導は世間の想像よりきっと少ない。考え方、感じ方、言動についての指導の厳しさは想像も及ばないと思う。

 

 

徒弟制度の難しさ

 

かれこれ11年ほど師匠をやってみて思うこと。現代における徒弟制度の最大の困難は「覚悟」であろうと思う。

 

一昔前のような丁稚奉公がありふれた時代なら、徒弟制度はそれほど難しいものではなかっただろうと思う。なぜなら弟子に来る人間は、その時点で家を出ているのである。師匠の家が新しい家になるのであって、もう帰るべき家などないのだ。しかし現代でその覚悟を持つことはとても難しい。

 

まず家族の理解が得られない。

 

池田、井上に続いてほんの一時期、もう一人弟子になったが、彼女はわごいちを去った。彼女の夫が反対するようになったのだ。しかし自分の妻が他人の弟子になり修行に傾倒していくことに不安を募らせたのは、当然であったろう。だから私も止めはしなかった。

 

本人の覚悟もまた難しい。

 

これまで私が弟子に取ったのは上の3人だけだが、そのほかに何人もの弟子志願者はいた。熱い気持ちを手紙やメールで伝えてきて、場合によっては面会をし、さらに千照館で前修行をさせたこともあった。しかし皆入口で挫折した。

 

皆が「私は真剣です。人生を賭けます。」と言った。仕事を辞めて遠くから通ってくるような人も何人もいた。でも(私から見れば)些細な理由でやめていくのである。

 

「真剣にもひとそれぞれのレベルがある」

 

ということを、私はこの徒弟制度を通して嫌というほど痛感した。

 

 

現代の徒弟制度

 

この現代において徒弟制度は成立しうるだろうか。

 

この問いに対する私の問いは「ほぼ無理」である。就業時間を守れないからと言って、きつく叱ったからと言って、ブラックだとパワハラだと騒がれ非難される時代に、本当の意味での徒弟関係が成り立つとは思えない。

 

しかし同時に思うのである。本当の職人を育てるならば、徒弟制度でなくてはならないだろう。なぜならば技術の根底で問われるものは人間性であるからだ。テクニックではない。キャリアでもない。人間性なのだ。

 

念のために説明しておくと、ここでいう人間性とは、「あの人は人間ができている」「あの人は愛嬌がある」「あの人は思慮深い」というようなタイプの人間性でなく、むしろ「人間的厳しさ」と理解されたい。例えるならば矢玉鉄砲玉に五体を打ちぬかれながら相手を抱きしめるような類の厳しさである。

 

こういう人間性を育てていかないと本当の仕事というものはできない。だから今の時代には難しいと思う。

 

 

 

池田仁勝さんにいただいた木彫りの印。私の憧れの薬師寺西塔の水煙を模して彫ってくださった。
池田仁勝さんにいただいた木彫りの印。私の憧れの薬師寺西塔の水煙を模して彫ってくださった。

 

 

なかなか一般に今回の話はわかりにくいと思う。実際に徒弟制度の渦中にいる人間にしか解り得ない世界かもしれない。

 

だから一つだけ予言をして、この頁を締めくくることにする。

 

前回の揉道14で紹介した最後の宮大工、つまり伝統的徒弟制度で修行した最後の宮大工ということだが、この西岡常一氏が棟梁として建てられた薬師寺の西塔と、西岡棟梁の死後に別の棟梁の手により解体修理された東塔が並んで立っている。新設と再建の違いは大きかろうが、200年後、この二つの塔を比べてみれば私のいう意味が解ってもらえると思う。

 

 

 

徒弟制度は誠に厳しい。

 

だからこそ残していきたいと日々苦闘を続けている。

 

 

 

 

丹足創始者

三宅弘晃

 

 

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