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揉道5.バブル経済と個性

バブル経済終末期

1年間の浪人生活を経て大学に入学した時、世はバブル経済のピークを迎えつつあった。

 

私が垣間見たバブルとは、借金して3000万円で買った家が3年後に5000万円で売れるという時代。金利も含めて4000万返済しても、3年タダで済んでしかも1000万円手に入るという時代。不思議な時代だった。

 

そんなバブルの時代によく耳にしたのが「3K」という言葉。「きたない」「きつい」「きけん」の頭を取って3K。バブルでブイブイいわしていたホワイトカラーの人間が、ブルーカラーの人間を見下す時にもよく使われたように記憶している。

 

 

 

このままでは社会で生きていけない

当時の私は必死だった。自分はそれまで親と学校の枠内で暮し、個として社会と一切向き合って来なかった。自分で何かを考え、自分の責任で行動するような人生を送ってこなかった。あまりに社会を知らなさすぎる。

 

それに気づいてからは、このままでは社会でちゃんと生きていけなくなる、ただ単に社会的保護者が学校から会社に変わるだけで、自分自身の人生を送ることはできない、と焦りさえ感じた。

 

大学時代にはバイトを色々やった。バブルらしい華やかなバイトではなく、いわゆる3Kという仕事ばかりを選んでやった。3K仕事を通してバブル社会の奥底を見ようとしたんだと思う。

 

 

日雇い労働者の世界

面白かったのは日雇いの土方仕事だった。朝7時くらいに広場に行く。事前の面接も申し込みも何もない。ただそこに行く。そこには200人くらいの労働者たちが居た。若者も年寄りも、日本人も外国人も、多様な人達が集まっていた。

 

しばらくするとワゴン車が10数台やってきて、「ここは8人」「こっちは6人」とか言うと、皆が適当に車に分散して乗り込む。人数が揃うと出発。時には人があぶれて、つかみ合いの喧嘩になった。

 

無事に車に乗り込むと、運転手が車内で行き先と仕事内容を伝える。目的地に着いたら現場監督が居て、その指示に従って黙々と一日肉体労働をする。いわゆる孫請けの土建会社だったのだと思う。時間が来たら再び同じ車に乗って広場に帰り、プレハブ小屋の前に並んで日当9千円をもらって家路に着く。

 

 

働いている手ごたえ

私はこの仕事が面白かった。誰に雇われるのかもわからない。どこに連れていかれるのかもわからない。互いのことは誰も知らない。仕事で怪我しても多分保障などない。極端に言えばそのままどこかに拉致されても誰にも知らされない。

 

でも感動があるのだ。一生懸命働いて、その報酬を手渡しで受け取るときの嬉しさ。「ああ、一日頑張って働いたなぁ。」という手応え。労働の原点を感じたのかもしれない。シンプルだからこそ伝わる感動と言うものがそこにあった。

 

帰りの電車で隣に座ったスーツ姿のサラリーマンが、汗とホコリにまみれた私の服に触れるのを露骨に嫌がった。心の中で思った。「誰のおかげで綺麗な道路を走れるんじゃ。」ひよっこが少しだけ社会を垣間見た。

 

 

個性があるということ

パチンコのバイトもお気に入りだった。結構な肉体労働だし、仕事上がりにおしぼりで顔を拭くとまっ黄色になった。タバコのヤニがこびり付いていたのだ。紛れもない3K仕事だった。

 

人が面白かった。店長はヤクザの用心棒をしていた人で、カラオケで酔っぱらって包丁を振り回していた時は怖かった。副店長は元暴走族の特攻隊長でいつも無表情で怖かった。が、ごくたまに笑う時はとても愛嬌があった。社員もマルチ商法にはまっている人、いつもあいさつ代わりに背中をどついてくる人など変な人が色々いた。

 

「なんで俺ばっかりどつくんですか?」と訊いたら、「お前は頑丈やから壊れへんやろ」と言ったが、本当はその社員が気に入っているあみさんと言う女性が、私に良く話しかけてくるのが気に食わなかっということも知っていた。それでもその人のことも私は好きだった。

 

職場は3Kだったかもしれないけれど、仕事仲間は自分を剥きだにして付き合ってくれたように思う。バイトをやめるとき、心のこもった送別会をしてもらったことは大事な思い出だ。決して社会的地位は高くなかったかもしれないが、自分が個として社会の中に立っていたように感じた。だからそれぞれがそれぞれにカッコよく見えた。

 

 

アジア放浪後の違和感

そんなバイトで稼いだ金はほとんど旅行に使った。貧乏旅行で、主にアジア各国を回った。中国、インドネシア、シンガポール、フィリピン、タイ、ベトナム・・・を回った。泊りは一泊500円くらいの最低レベルのドミトリー、食事は屋台で、数万円握りしめて金が尽きるまで滞在するという自由な旅をした。

 

しばらく滞在したフィリピンのエリミタ(マニラでも1番の犯罪地区と言われていた)では、ショットガンをもったおっさんたちの中を、懐にナイフを忍ばせて歩いた。安ホテルに帰ると毎晩30匹以上のゴキブリを潰してからシャワーを浴びた。

 

そんなアジア貧乏旅行から関西空港に降り立つと、いつも強烈な違和感があった。目が違うのだ。きらきらあるいはギラギラした目でまっずぐに見つめてくるアジアの人たちと、互いに目を合わさないようにしている日本の人たち。端的に言うと、生きている目だらけの世界から、死んでいる目だらけの世界に帰ってきたような感じがした。

 

唯一日本でそういう生きた目に出会えるのは、日雇いやパチンコなど3Kの仕事仲間だった。

 

なんなんだろう、この国は。

 

我が世の春を謳歌するバブル日本の中でそんなことを思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

社会勉強が過ぎて、大学卒業が1年延びた。

 

 

 

 

丹足創始者 三宅弘晃

 

 

 

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