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揉道8.勝負どころ

3倍修業

一般の人には信じられないかもしれないが、整体師に成る為の法律など一切ない。だから何年も学校に通ってから開業する人もいれば、クイックマッサージで3日研修をうけただけで「整体師」としてデビューする人も沢山いる。民間資格の危うさがてきめんに表れる業種と言える。

かく言う私もデビューは早かった方だと思う。2001年4月に修行をはじめ、2002年1月には開業している。初めてお金をいただいて「整体」を行ったのは2001年の夏ごろだったと思う。元職場のOLさんたちがお客さんを集めてくれ、ありがたくもお金をいただきながら経験を積ませてもらった。また親族が受けてくれたり、お客さんを紹介してくれたり、多くの人が私の新しい挑戦を支えてくれた。

当時の私は早く一人前になりたかった。現実的な問題として生活をしていかねばならない。失業保険などすぐに切れてしまう。牛丼屋でバイトでもして食いつなぎながらじっくりと腕を磨くという選択肢もあったが、30歳手前という遅いデビューで寄り道している時間も無い気がして、何としても動ける時間はすべて「整体」につぎ込んで腕を磨きたいと思った。焦りのようなものは強くあったと思う。

だから人の3倍努力しようと決めた。人と同じように整体学校に行く。これでは1倍にしかならない。合わせて桜井先生のところに個人修行に行く。これで2倍。さらに仲間たちが学校帰りに飲みに行っている夜中に出張整体の仕事をした。これで3倍。最低でも3倍くらいやらないと人には勝てない。開業しても失敗する。人に勝つだけではダメ。人よりずば抜ける必要がある。それしかないと思っていた。

出張整体で腕磨き

力試しの出張整体は思いのほか反応が良かった。皆にリピートしてもらえたし、半寝たきりの女性が小走りできるようになったり、本格的に寝たきりの女性が歩けるようになってお礼に来てくださったり、そういう一つ一つの経験が自信にもなったし、改めて整体ってすごいなと自分の選択に確信を深めていくことができた。

色々な技術を学びたいと思って東洋整体系の出張整体のバイトに申し込んだ。採用されれば3か月の研修を受けられるというのが魅力だった。面接に行くと5人くらいの研修生たちがいて、同じ部屋で私は実技試験を受けたのだが、「即採用」はいいとして「研修免除」、さらに「支部長就任」をその場で告げられた時はびっくりした。破格の待遇だったらしい。見ていた研修生たちもびっくりしていたがそれは辞退した。

そんな学校と個人修行と出張整体の3本立て修行の中で手ごたえも感じていたが、それでもやはり開業となるといつにするべきか迷った。自信はないわけではない。でもこの自信は本当の力の裏付けがあるのか。たまたま偶然にうまくいっただけではないか。桜井先生でさえ苦戦する経営を、自分は成功させることができるのか。どこで踏んぎるべきか。誰も教えてくれなかった。

大阪本町での開業

運命というものがあるのかもしれない。突如桜井先生の東京行きが決まり、私が後釜に据えられたのは2002年1月のこと。場所は大阪の本町、心斎橋商店街に面したビルの5階だった。こういう流れでなければ、きっと私は本町のような繁華街で開業などしなかった。もう少し郊外でこじんまりと開業したはずである。

家賃も安くはなかった。8坪で月15万円。設備は桜井先生の後をそのまま引き継いだので改装費がかからなかったのは助かったが、さあこれから毎月15万円を払いつつ生活をしていくんだと思うと、さすがに成算など持てなかった。やるしかないんだ。それだけだった。

幸いに家主さんが同じビルで宝石商をしていて、よく顔を出しては商売の心得などを話してくださった。サラリーマン上がりの私にとっては大阪商人の話は目から鱗のことばかりでとても勉強になった。特に初めに言われたことはよく覚えている。「3か月から半年です。開業して3か月から半年で黒字にもっていかないと、何年やってもその商売はダメなんです。」これには胸をえぐられる思いだった。つまり半年で結果が出ないならあきらめろ、と言うこと。確かに大した元手もないない開業、そうずるずると赤字に耐えられるはずもない。力がないものは速やかに去れ、それは厳しくもおもいやりのあるアドバイスに感じた。

さすがに初めの1、2か月はこの先どうなるんだろうと不安の日々だったが、色々と手を打ち広告なども使い、4か月後には経営も黒字化、半年後には予約の取れない整体院になっていた。「おなかの整体」という新しい(と言っても桜井先生が先にされていたのだか)整体に多くの人が興味をもってくれた。当時はまだ日本経済も元気で、キャピキャピ好奇心旺盛なOLさんたちが「おなかの整体?なにそれ?気になる~」って感じで集まってきた。郊外で重病人を助けたいと思っていた私には全く予想外の展開だったが、そこは流れの中で生きていくしかないのだ。私は本町に根を下ろすことになった。

洗礼

そんな経営が軌道に乗り始めたころ、一つの「おいしい話」が舞い込んだ。持ち込んだのは宝石商の家主さん。私が習った桜井先生の師匠のさらに師匠に当たる人に宮原一男先生という人がいるという話は桜井先生から聞いていた。宮原一男先生は「新日本延命医学療法」という流派を立ち上げられた伝説の達人であったが、すでに亡くなられ、その極意は息子さんだけに伝えられていると言う。宝石商の家主さんがその息子さんと知り合いで、君に紹介してもいいいと、さらにその技を君に教えてもらえるように取り計らうよと、そんな話を持ってこられた。

当時の駆け出しの私にとっては夢のような話だった。「なぜ僕に?」と聞いたら「開業以来頑張りを見てきて、見どころがあるからです」とのこと。開業して大盛況なだけでもできすぎな人生なのに、さらにそんな幸運ってあるのだろうか?「この話に興味ありますか?」と聞かれたので、「もちろんです。」それ以外の答えはないだろう。

しかし「ならば・・・」と続けられた提案には耳を疑った。「あなたが新日本延命医学療法の技を習うには条件があります。宮原先生をこの院に迎えて院長に据え、あなたはスタッフとして先生を支えるのです。」さらに言葉は続く。「今ここに通う患者さんのうち重傷者は宮原先生に、軽症者はあなたが見ればいい。患者さんも喜ぶし、あなたも技が学べるし、皆が幸せになれます。」

「それはあまりにも唐突な話です。ここは僕が開業した僕の整体院です。お客さんは技術もさることながら僕という人間も含めて通ってくれています。それが全部壊れてしまいます。」と私が言うと、「延命学を習いたくはないのですか。明後日には宮原先生が顔合わせにここに来ることになっています。出会ってよく考えてみてください。来月には宮原先生がこの部屋に来ることは決まっています。」一方的に言い残して、宝石商の家主さんは去っていった。

信頼していた家主さんからの有無を言わさぬ通告。ああ俺は世間知らずだった。あの人は親切だけで商売の話を聞かせてくれていたんじゃなかった。どこかでずっと値踏みしていたんだ。俺という人間の価値を。使い道を。そんなことは微塵も思ってなかった己の浅はかさよ。

新日本延命医学療法

かくして延命学はやってきた。実を言うとこの時までは私はまだ迷っていた。この話を突っぱねるか、受け入れるか。突っぱねたらまた違う場所で一からやり直さなくちゃならない。そんなリスクを負うならここは折れてもう一度みっちり延命学を修行して、さらに大きな飛躍を期すことも一つの選択肢だ。全ては宮原先生に会ってから考えよう。そう決めた。

宮原先生の第一印象、それは大きな手。まぎれもなく手技療法者の手。しっかり修行を積んだ手。熟練の畳職人のような大きくて分厚くてそれでいて柔らかい手。1年ちょっとの駆け出しの私の手とは全くの別物。最初の握手は圧倒された。

それから少し話をし、お試し施術を受け、私の心は決まった。明日宝石商の家主さんにこの話は断ろう。

宮原先生には、私に技術を教える気はないことが見て取れた。宮原先生は技術を餌に経営権が欲しい。宝石商の家主さんも、凄腕の宮原先生を自分の手元に置きたい。宮原先生は腕はいいが経営ができないから、私に面倒を見させようと。いい大人が寄ってたかって懸命に生きる若者を利用しようとする。もちろん患者のことなども考えていない。自分の欲を満たすことが大事。これが大人かと社会かと、反吐が出る思いだった。

激動の移転

嫌がらせなど一通りの大人社会の洗礼を受けながら、私は8坪の部屋を出た。同じ部屋には後釜として宮原先生が入ってくる。宮原先生が乗り込んでくるまでのひと月、それが私に与えられた移転準備の期間だった。

不動産屋さんに事情を話し、患者さんの利便性を考えて同じ本町でいい部屋はないかと探し回った。幸か不幸か人気絶頂の忙しい時期だったので、その仕事の合間をぬって、部屋探し、賃貸契約、内装工事、お客様への移転のお知らせ、元の部屋の撤収作業などを一月でやり終えねばならない。今思い返してもとてもきつかったが、「ここで負けてなるものか」と歯を食いしばって取り組んだ。妻も全力で支えてくれたし、親族や不動産や改装業者や畳屋の親方など多くの人が応援してくれて、世の温かさもまた身に染みた時期だった。

結果的には一日も休院することなく移転することができた。しかも家賃はほぼ同じで広さは倍。より駅に近くなり、条件としてはずいぶん良くなり、むしろ災い転じて福となった感さえあった。しかももう誰も干渉してくることもない。自分の思い通りの整体院作りができる。お客さんも100%全員が私の方についてきてくれた。こんな未熟な腕なのに・・・と思うと、もっと必死でうまくならないと申し訳ないという気持ちで一杯になった。

勝負所

今から思い返しても、この時は私の人生にとって一つの勝負所だった。開業することよりも、延命学を辞退したことの方が勇気がいった。桜井先生から時折聞かされていた、宮原先生の話、新日本延命医学療法の話。桜井先生でさえ一目置き、いやむしろ口には出さないまでも「宮原一男先生には技術ではかなわない」とさえ思われていた節がある。当然教え子である私に影響を与えなかったはずはない。

それまで私の中には漠然と、しかし確かに「いつか可能なら延命学を習いたい」という気持ちがあった。それは「延命学のレベルには自力では到達できないだろう」という先入観があるがゆえである。ところが何の運命のいたずらか、その延命学を習う機会がやってきた。経営権と患者の半分をさしだせば教えてもらえるかもしれない、そんな取引がやってきた。

私は延命学という看板に引きずり込まれそうになったが、そこに宮原一男先生はもういなかった。朽ちていく遺産にしがみつく人たちしかいなかった。たからこそ私は我に帰ることができた。

「もう本物の延命学はこの世にない。あとは時代と共に劣化していく延命学があるだけだ。そこに自分の人生を投げ出してどうなる。俺は自分で道を切り開く。宮原一男先生を超える整体を作り上げる。俺は俺を信じる。」

甘さを捨て覚悟をさだめた勝負どころだった。

丹足創始者 三宅弘晃