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剣道道場体験記

ご縁があり、知人が指導員を務める剣道道場に指導部三宅と井上で稽古体験に行きました。

 

私たち千照館は道場として11年の歴史がありますが、日本伝統武道の歴史に比べればまだまだ新参者。伝統に学ぶことが多々あるのではないか、そんな期待を込めての体験稽古参加でした。

 

当日、まず知人の西田六段先生のお宅にお邪魔し、道着をお借りし着替え、普段の自己鍛錬のお話などを伺いました。

 

西田六段の職業は会社員。毎週子供たちに剣道を教えに行ったり、より高段者から稽古をつけてもらっているとのこと。とにかく剣道愛が全身みなぎるような人です。自宅庭に練習場を設け鍛錬に励んでいるとのことでした。

 

そこから車に乗せてもらって道場に移動。放課後の中学校の体育館が「道場」となります。

 

 

「道場」に入る前に一礼。先客がいる場合には「こんにちは!」と大きな声であいさつ。先客皆さんも「こんにちは!」と応えます。

 

この日の指導者は3名。指導者は正面舞台側で稽古の身支度を整えます。道場生たちは反対の入り口側です。

 

身支度が整った道場生は、一人一人指導者たちの元に歩み寄って「よろしくお願いします!」とあいさつをしていきます。指導者は「よろしくお願いします」「がんばろうな」「もう試合まで日が迫ってきたね」などの声を掛けていきます。

 

さらに道場生たちは見学者である私たちにも「よろしくお願いします!」と挨拶をしていきます。誰に言われたわけでもないので、ここではこのように指導者と来賓や見学者の前に来て挨拶をする、というのが習慣になっているのでしょう。

 

礼こそ道場の基本であり、礼のはじまりは「挨拶」である、ということをまざまざと見せられた気がしました。清らかな気持ちになる稽古はじまりでした。

 

本格的な稽古前に、道場生が足はこびの基礎練習を開始しました。

 

縄ばしごを床に広げ、順に一人ずつさまざまなステップを踏んでいきます。たしか野球や陸上で似たような風景を見たことがありますが、ステップは剣道の足運びに則していました。

 

 

ここまでが自主練習。

 

さて、稽古の時間がきました。

 

先生方が上座に座り、道場生たちが下座に一列に座ります。

 

リーダーとおぼしき道場生が「正面に礼」と声をかけ、皆が一斉に壇上(ステージ)に向かって礼をします。もしかすれば何か大事なものが壇上に据えられていたのでしょうか。本式の道場であれば、神棚や掛け軸などに向かってきっと「礼」を行うのでしょう。

 

次に先生がくるりと皆と対面する形になってから「先生に礼」を行います。

 

リーダーの少年が「黙想」と声を上げます。しばし黙想を行います。

 

そして先生の講話です。会の理念や心がけなどのお話をされました。続いて私たちも挨拶し、最後に「よろしくお願いします」「礼」と続いて、いよいよ稽古開始です。

 

 

西田六段に面の稽古をつけてもらう三宅
西田六段に面の稽古をつけてもらう三宅

稽古は型稽古のあとに、かかり稽古や地稽古などを行っていたようです。私たちは道場の端で基本のすり足と面の打ち方を教えてもらいました。

 

ちなみにかかり稽古や地稽古で相手が変わるたびに礼があります。相手によって稽古内容によってそれぞれの作法があります。(それぞれに意味があります)

 

稽古全体の雰囲気はとても和やかなものでしたが、竹刀をもって向き合うとまったく空気が一変していました。

 

とにかく一心に打ち込む。何度も何度も打ち込む。時折指導者から「それ!」とか「もっと○○!」とか短い指導の声が飛ぶ。何本か打ち込んで相手が変わるとき、道場生が先生のほうに駆け寄っていき、より詳細な指導を仰ぐ。

 

「こう。こうじゃなくて、こうや!」(先生)、「はい!」「はい!」「はい!」(道場生)のやり取りがあちこちで何度も何度も繰り返される。

 

とにかくやってみる。とにかく体を動かして、動きの中で試行錯誤を積み上げていく。いくら頭で理解していようが、体現できていなければここでは何の意味をも持たない。

 

そういう精錬な空気がどんどんと密度を増していく時間でした。

 

井上師範代の面打ち稽古。顎が上がりすぎ?
井上師範代の面打ち稽古。顎が上がりすぎ?

2時間の稽古もあっという間。小休憩の和やかさと、稽古の精錬さと、その間を行ったり来たりするような道場に一つの理想を私は感じました。

 

まず大事なことは「返事」と「挨拶」とのことです。

 

「挨拶」はまだ想像の及ぶところでしたが、「返事」の意味をここまで考えたことはなかったように思います。

 

とにかく先生から指導を受けた子供たちの口から「はい!」以外を聞きません。一心に竹刀をふるい、一心に指導を聞き、「はい!」で次に進む。こんなに気持ちの良いものだったとは、やってみないとわからないでしょう。

 

普通どうしても大人は「はい!」だけでおわりません。せっかく教えられても「でも先生!」と理屈をこねて口ごたえしたり、言い訳をすることがあります。それは道場では要らぬことなのですね。

 

先生という人は、すでに教え子たちのやっていることを通り抜け、克服してきた人たちです。ですからその教え子に何が足りないかはわかって指導しているのです。だから返事は「はい!」でいい。あとは言われたことをできるようにやるだけです。できないならば家に帰って自己鍛錬をするしかないのです。

 

私ははじめ、子供だから素直なのかな?と思いました。でもよくよく見ればこの子たちも普通の子たちです。きっと家に帰れば親や学校の先生に反抗することもあるでしょう。いつも「はい!」「はい!」とは言っていないはずです。

 

二人の大人も子供と同じように「はい!」「はい!」と稽古に取り組んでいました。ということは、子供だから素直であれるわけではなく、ここが道場だから音も子供も「はい!」という返事が行える、行わなくちゃならない、と皆が理解しているのですね。

 

これは大きな発見でした。大人でもやればきっとできるはずです。もちろん千照館でも。

 

今の時代は、とにかく平等、上下を作らないことを良しとする風潮が強いようです。たとえ先生と生徒であっても同じ立場で自由に議論することが今風です。それはそれでよいと思います。

 

大事なのは「場」の性格です。そういう自由と平等を大事にする場では、そうあってしかるべきですが、そういう場ばかりになっては社会が均質化され文化の深みがなくなっていくことでしょう。

 

逆にこういう時代だからこそ、「返事」「挨拶」といった礼を大事にする場、つまり道場をもっておくことに意味があります。それは自分の中に多様な文化、価値観を養っていくということです。「礼を通してしか学びえないこと」に触れる、それが道場での学びの醍醐味と言えましょう。

 

※以前に書いたこの記事も参考ください。道場と教室は別物なのです。 

 

→「師範コラムvol.8道場と教室

 

中央が西田六段。お借りした胴は井上師範代にはちょっと大きすぎましたが笑
中央が西田六段。お借りした胴は井上師範代にはちょっと大きすぎましたが笑

このような感じで、初めての剣道稽古体験は実りの多いものとなりました。

 

特に「返事」と「挨拶」については学ぶべきところ大でした。礼を尽くすことで場にいるそれぞれが一心に、淀みなく挑む空気が膨らんでいきます。

 

千照館においても、焦らずひとつひとつ礼を深めていきたいと思います。

 

 

命がかかる、人生がかかる。わごいちでの丹足
命がかかる、人生がかかる。わごいちでの丹足

 

 

最後に。

 

剣道先生方の指導を見ながら、我らが井上師範代の丹足は武道基準では何段になるのだろう、と心中考えていました。(以前から考えていたのですが)

 

今回に限らずいろいろな武道を見てきて思うのは、少なくともそれらの六段や七段という位置ではないだろう、ということです。

 

現代武道者の多くは仕事と求道が分かれています。しかし井上師範代は仕事そのものが求道となっています。「わごいち」で生きるか死ぬかという人たちを受け入れ、一人一人救いながら丹錬と実戦を重ねている。いわば毎日何時間も真剣勝負を繰り返しているような求道者です。文字通り次元が違うのです。

 

千照館道場生の皆さんは、そんな本物の求道者から丹足の指導を受けています。言葉にするのは簡単。でもどこまでその意味を、ありがたみを噛み締めているか。

 

丹足道八か条。今回は特に四条、六条、八条。

 

今一度よく考えてみてください。益々の丹錬を期待しています。

 

 

師範 三宅弘晃