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師範代コラム仄光(令和8年5月12日)

仄光

こんにちは、ご無沙汰していました師範代井上です。

 

癒し丹足 千照館でどんな稽古時間があったか、留めておきたいものがあります。

 

「タイトルは大事だよ」と師範からご忠告いただき、結果、師範のアイデアそのままに(笑)、「仄光(ほのか)」というタイトルで書いていこうと思います。

 

"雲間に射す微かな光"………というニュアンスをイメージくださった言葉です。


伝えたい伝わらない

 

身体の使い方がそのまま踏み心地に表れる癒し丹足は、踏まれ手が何よりの先生になります。ですから、稽古において踏まれ手は大切な存在です。

 

踏まれ心地にも正解の道筋は確かにあります。けれどそれを体現したり表現したりを間違いなくすることは誰にも、私にもできません。でもその正解に少しでもにじり寄っていきたい、そうして皆、ここにいます。

 

そんな風景がありました。

 

「変なこと言ってると自分でも思うんですけど・・・」とちかこさん、

 

確かに表現が彼女独特で難しい。自分の感性を大事にしているけれどその感じ方に自信が持てず、選ぶ言葉が相手に伝わらず、そんな自分がもどかしい。

 

でも傍から聞いていて、的はついているのです。


「大丈夫、そのまま伝えて一緒に考えればいいから」と私は促します。


受け取りたい受け取れない

 

踏み手はその受け取る言葉を「独特だねー」で済ませたら試合終了です。

 

分からない、けれど分かりたいしみずさん。自分に今足りないものが、まだ掴みきれないもどかしさをもって稽古に励んでいますから。

 

しっかり聞くし、しっかり伝える人ですが、しっかりにも深さがあるんですね。そんなことを思うやりとりでした。

 

「しみずさんは今もらった言葉をどう考える?」

 

「ちかこさんはしみずさんのこの考えをどう感じる?」

 

双方に問います。後は二人に頑張ってもらいます。二人ともなかなかのしつこさ(笑)しぶとさ。それがいい。

 

共通の言葉を見つけていく二人、もどかしさ同士の歯車がちょっとずつちょっとずつ合っていくのを感じる一幕でした。

 

高め合い

とことん伝える。とことん聴く。

 

それがどれほど尊く幸せなことか。二人の顔を見ている私までその尊さ幸せを享受していました。

 

欲の深さに火が着いたのか着けてもらったのか、いつもならもっとずっと手前で「こうですね」と決めて切り上げて実は分からないまま、なんとなく理解したふうで終わった稽古だったろうと思います。

 

世間に目を見渡せば、例えばSNSの中で、言葉はたくさん交わされます。発した言葉にコメントという形で言葉が返ってきます。「そういうことじゃないんだけどな………」があふれて、スルーもあれば本来の意図を離れたコメントの応酬があったりもします。そうしていつしか疲れて流れていくように感じてしまいます。

 

千照館の稽古では、伝わらないものを、受け取れないものを、互いの本当の意図をしつこくしぶとく詰めていくことができます。一緒に励む時間を重ねた今、もどかしさが少しずつでもちゃんと積み重ねていこうとする今。きっとそんなタイミングの巡り合わせの対話だったのかなと思います。

 

コミュニケーションと呼ぶべき対話だったと思います。そのコミュニケーションが、癒しの源泉になるのだろうと思います。大事にしたい、その大事さを伝えていきたいと思いました。

 

一人ではできないこと、だけど一人でやってきたから二人でできることがあるのだと思わせてくれます。いい顔、いい声、そして揺らぐ癒し丹足姿(笑)。

 

癒し丹足の上達において、決めていいことなんてありません。揺らいで揺らいで、またここからまた始まりますね。楽しみです。

 

上手になりたいという純粋な気持ちに浸れる時間、その純粋さをより純なものにしていく勝負。そんな空気感が他の道場生にも高まって、稽古場が熱を帯びていくのを感じられて、とても幸せだなぁと思いました。

 

お陰様で私も良い気付きももらいました。教える方も教わる方にもまた、それぞれ上達の道は用意されているのです。そんな喜びも再確認した稽古となりました。

 

有り難うございました。

      

 

 

井上紙鳶